私がバレエウェアを作る理由 3 先の見えない迷路
私のサイトへようこそ! バレエウェアコーディネーター、結月ななです。ご覧いただきありがとうございます。
今回は「私がバレエウェアを作る理由」シリーズの3回目です。
私がバレエウェアを作る理由 2 では、私の洋裁スキルを認めてくださり、ご自分でも作成依頼をしてくださって、バレエウェア作成のプロとして活動するよう背中を押してくださったR先生が、突然の病に倒れられて、無期限の休養に入られたことをお話しました。
その結果、指導してくださる先生が変わり、新しく来られた先生との間に、誤解からすれ違いが生じてしまったこと、そしてそれが原因で、バレエウェアを作ることが出来なくなったばかりか、バレエそのものを辞めようとまで考え始めた…
という部分まで書きました。これは、その続きの話です。
この舞台が終わったら私、バレエ辞めます
気がつけば、R先生の突然の病の発覚、思いもよらぬ長期休養となってから、半年余りが過ぎ、季節は秋の終わりを迎えていました。
この半年間、次々に起こる想定外の出来事で、私は精神的にボロボロになっていました。頼みのR先生はいつ戻るかわからず、代わりに来た先生にはレッスンの度に叱責され続けて、心身ともにくたくたになっていました。
しかし、どんなに追い詰められていても、毎年12月に行われる、すでに出演の決まっている舞台だけはすっぽかすわけにはいきません。なんとかこの舞台を終えて、そのあとにバレエを辞めようと、私は真剣に考え始めていました。
バレエを辞めるか、続けて自分が壊れるか、事態はそこまで切迫していたのです。
しかし、そんな中、思いがけない出来事が起こりました。
待ち焦がれていた先生からのメールは、私をさらに奈落の底へと突き落とした
それは本番の4日前のことでした。最終の舞台稽古を終え、へとへとに疲れ切って帰りの車に乗り込んだ時、ふと携帯電話に目をやると「メール着信」の赤いランプが点滅していました。
「誰からだろう?」
急いで折畳み式の携帯を開くと、そこに表示されていたのはR先生のお名前でした。
これまでの半年、何度メールしても返信がなかった、思いもかけない人からのメールに、心臓がとび上がりました。ほんとに待ち焦がれていたメールだったので、嬉しくて嬉しくて、急いで開封しました。
しかし、連絡をもらったという喜びは一瞬で打ち砕かれました。そこに書かれていたのは、さらに私を暗闇へ突き落とす言葉だったのです。
それは、「〇月〇日から、レッスンに戻ります」ではなく、「治療を頑張ってきたけれど、思うように進まず、復帰はいつになるかわからない」という内容が、繰り返しの謝罪の言葉とともに書かれていました。
半年が経過してもよくならないということ以外、病の詳しい状態には全く触れていなかったのは、私が考えていた以上に事が重大であることを示していました。
待ち焦がれていたはずのR先生からのメールは、私をさらに奈落の底へと突き落としました。
「バレエ、続けてね。絶対ですよ。」
ところが、それ以上読み進めるのが辛くなって、メールアプリを閉じようとして視線を動かした瞬間、一つの文章が私の目に飛び込んできたのです。
「バレエ、続けてね。絶対ですよ。ななさんはもう、教室に欠かせない人になっているんですよ。」
この一文を読んだ時、正直「先生何言ってるの?無理だよ!」って思いました。
毎回のレッスンで、Y先生に怒鳴られっぱなしの私が教室に欠かせない人?そんなわけないでしょって。
もう、「辞めます」って「今月いっぱいで、もう来ません」って、いつ言おうか考えてる状態なのに。
私の現状がまったく解っていない先生の一言に、こみあげてくる涙と怒りをこらえた次の瞬間、全く別なことが突然、雷が落ちたように私の脳裏にひらめきました。
「先生、病気直して戻ってくる気なんだ。あきらめていないんだ」
「先生が復帰されたとき、私がいなかったらどんなに悲しむだろう。どんなに自分を責めるだろう」
その次の瞬間、不思議なことに、まるで何か悪いものが落ちたように「辞める」という気持ちが消えていきました。
時間がかかっても、先生が病気を治して戻ってくるつもりなら、復帰された時、私がいなくなっていたら悲しむでしょう。そして、自分のせいだと苦しむでしょう。
自分のために、生徒のために、必死で病気と闘っている先生にそんな思いをさせるわけにはいきません。
そう思ったらもう、「辞めよう、苦しいから逃げ出そうなんて考えないで、なんとしても頑張るしかない」と、私は腹を決めたのでした。
「実は私、がん闘病中です。」さらに続く先の見えない迷路
それから先は、Y先生にレッスンでどんなに怒鳴られても、辛い顔をせず下を向かずに、必死になってくらいついていきました。時間がかかっても、もう一度R先生がきっと戻って来ると、再びR先生のレッスンが受けられる日が来ると、信じていたのです。
「先生が戻ってこられた時、少しでも上手になっていたいから」
その当時、私の気持ちの支えは「先生が復帰するまで頑張る」それだけでした。それだけが私を支えていました。しかし、その後は再び、私からメールを入れても返信がない日々が続いたのでした。
R先生から、再び連絡があったのは、最後のメールから1年が過ぎた、翌年の12月でした。忘れもしません。その年の舞台の途中経過を知らせた数日後、本番が終わった翌日のことでした。
「大分よくなったから、年明けから戻れます。またレッスン頑張りましょうね。」そんな返事を期待していた私は、再び打ちのめされることになりました。そこにあったのは、衝撃的な一文でした。
「ここまで詳しく言わないで来ましたが実は私、がん闘病中なのです。」
「一番厄介なのが背中にあって、放射線とホルモン療法で治療しています。」
言葉を失いました。私の、先の見えない迷路は、まだ、いつ終わるともわからないことだけははっきりしたのです。
この一文は、さらに私を暗闇に引き戻すことになりました。
私がバレエウェアを作る理由 4 に続きます。