私がバレエウェアを作る理由 9 バレエ続けてね 約束ですよ
おいでいただき有難うございます。 バレエウェアコーディネーター、結月ななです。
前回の、私がバレエウェアを作る理由 8 年が明けてしばらくして、突然に先生から電話があり、「ななさんとの絆は切りたくないの」とおっしゃって、具合が良くない中、たくさんお話をしてくださったところまで、書きました。
その時、一番かわいがっていた生徒に、後ろ足で砂をかけられるような冷たい態度をとられてショックを受けたことを知り、「写真を撮っていたのに、一枚も送ってくれない」と、悲しい声で呟かれたのを耳にして、私は激怒しました。
すぐに写真を持っているお仲間さんに連絡してあるだけのデータを転送してもらい、速攻で先生に送りました。
すると、先生はとても喜んで「私が元気になったら、今年の暮れの舞台で会ってたくさん写しましょうね」とメールをくださいました。「約束ですよ!私はバッチり痩せますからね」と返信しました。
本当に今年も暮れの舞台で先生と会いたい、元気になって舞台を見にきてほしい、心からそう思ったのです。
そこからの続きです。
先生は「穏やかな最後」を選択した
先生から直接電話があってから、2週間後くらいのことだったでしょうか。
緩和病棟に再入院した…と連絡がありました。
「だいぶ落ち着いたから、顔見に来て」とおっしゃられたので、大急ぎで、おばさん軍団のお仲間さんに連絡を回したあと、その日のうちに時間の都合がついたHさんと二人、私は病院を訪ねました。
緩和病棟は別名ホスピスとも呼ばれています。
「緩和」の言葉通り、積極的な治療をするのではなく、痛みが酷ければ痛み止めを、呼吸が苦しければ酸素を、と苦痛を和らげる処置を最優先にして、患者さんが楽に過ごせるようにバックアップしてくれる施設です。
シビアな言い方に変えると「穏やかに死を迎えるための施設」ともいえるでしょうか。
先生のメールで、前もって部屋番号を聞いていたので特に迷うことなく、目的の階につきました。
R先生の病室はそのフロアの中ほどにありました。全室個室で、縦に長く、出入口はカーテンで仕切られていました。カーテンを開けると、右手にシャワーとトイレ、左手に通路、ベッドは一番奥にありました。
ノックすると明るい元気な声が聞こえました。そのまま一番奥まで入っていくと、華やかなピンク色のパジャマに身を包んだ先生が、背もたれを起こしたベッドの上に座っておられました。
「こんばんは!先生、来ちゃったよ」と、Hさんと二人で声をかけると「あらあらあら」と驚いた顔をしたものの、先生はとても嬉しそうに笑いました。
部屋は明るく、きれいに片付けられていて、ベッドサイドには化粧品やDVDプレイヤー、大好きなバレエのDVDが置かれており、自分の好きなものに囲まれて穏やかに過ごされているようでした。
緩和病棟に入ってからの処置があっていたのか、先生は今までの苦痛から少し解放された様子で、年末の舞台の時とは見違えるように顔色がよくなって、元気が出たように思えました。顔と声だけは、以前のお洒落で綺麗なままの先生と変わらなく見えました。
しかし、パジャマから覗く腕や、パジャマを通してでもわかる太ももの細さは、いまでもあきらかに先生の戦いが不利なものであることを示していました。
「来てくれてありがとう。心配かけっぱなしでごめんね。」そう前置きすると、先生は私たちに初めて、自分の口から、これまでの経過を話し始めました。
4年前、先生はすでに末期がんだった
4年前の4月の末、帯状疱疹が出来て肋骨のあたりが痛くなったので、肋間神経痛だと思っていたこと。
「仕事もバレエも忙しかったから、疲労が重なっていたのかな」と思って、少し休めば治るだろうと考え、バレエのレッスンも仕事も、思い切って休んだこと。
しかし、何日休んでも、体調がよくなるどころか、日に日に肋骨の痛みがひどくなり、咳が出始めて、止まらなくなったこと。
あまりにも胸が痛むし、咳が止まらなくて苦しいので、肋骨が折れたのかと思って、病院に行ってレントゲンを撮ってもらったら、骨折ではなく肺に水が溜まっていたこと。
すぐに検査が行われ、判明した病名は「乳がん」だったこと。
その時にはすでに背骨に転移があって、ステージⅣの末期だと言われたこと。
即入院治療になって、4カ月余り病院で過ごし、すこし落ち着いたので、その後しばらくは実家に帰って静養していたこと。
でも、いつまでもご主人を一人で置いておくわけにはいかないので、こっちに戻ってきたこと。
先生は、ここまでを一気に語りました。そして、一息つくとこう言いました。「私、がんを簡単に考えていたのよ。甘く見てたのね」「薬が効いていれば、(がんが体の中で暴れださなければ)平気だったから」
その後も、入退院を繰り返しながら治療を続けてきたこと。
治療が功を奏して一時大分良くなったのだけれど、あと少しのところで、ホルモン療法も放射線治療も限界がきてしまったこと。
その時に他の治療への切り替えがうまくいかず(薬が効かなかった?)、今まで抑えられてきたがん細胞が一気に暴れ始めて、見る見るうちに悪くなってしまったこと。
私がバレエウェアを作る理由 6で、「抗がん剤が使えるといいのだけれど…」と先生がつぶやいたのを聞いたのが、まさにその時期だったのです。
抗がん剤が使えなかったのか、それとも効き目がなかったのかはわかりません。とにかく、長期にわたって治療し、一度はもう少しというところまで追いつめたにもかかわらず、食い止めるものがなくなった途端、がんはあっという間に先生の身体を蹂躙したのです。
4年が過ぎて、先生の口から初めて明かされた残酷な真実に、私もHさんも次の言葉を失いました。そんな私たちに先生は明るく言いました。
「でも、しばらくここにいるけど、良くなってきたらまた、一般病棟に移るのよ。」「ここだと、治療はしないから」
繰り返しになりますが、緩和病棟は「苦痛の緩和」が目的なので、がん本体に対する治療はしないのです。
先生はまだ、生きることをあきらめていない様子でした。本当にそうなればいいな…と考えながら、その後の時間はつとめて明るく楽しく話をして、「またね」と、おいとましました。
苦痛のない穏やかな日々はあっという間に過ぎて…
それからのひと月余りは、先生の状態が落ちついていたので(痛みはあるけど、鎮痛剤の適切な投与でコントロールが出来ていた)、先生が教えていたクラスのおばさん軍団は、ほとんどの人が先生にお会いすることができました。
私ももう一度、バレエ仲間兼手芸仲間のKさんと、お子さんのMちゃんとお伺いして、とても喜んでもらえました。
先生、Mちゃんに会いたかったのですって。優しいMちゃん、手作りのゼリーを持参してきてくれて「ゼリーしか食べられない」状態だった先生、とても喜んでくださいました。
しかし…
穏やかな時間は長くは続きませんでした。
私が最後に先生とお会いしてから2週間余り、最初に先生から連絡があった時期に、面会が間に合わなかった何人かが会いに行こうとしたけれど、もう、遅かったのです。
再び状態が悪化して、面会できる状態ではなくなっていました。なので、そのあとはずっと気にはしていましたが、病状の深刻さを考えると、無理に面会も連絡もできないまま過ごしました。
そんななか、突然の連絡が私のもとに届いたのは、最後にお会いしてから2カ月が過ぎた、4月の末のことでした。
突然の別れ 早すぎた先生の旅立ち
その日は平日だったので、私は朝から普通に仕事をしていました。
10時の休憩になって、何気なく携帯を見たとき、そこにあったのは一番見たくない文字の羅列でした。
先生のLINEアドレスに、先生の息子さんから「昨日亡くなりました」という連絡が入っていたのです。先生は満開の桜を見て、それが散って間もなく旅立っていかれました。
泣くよりも先に、とにかく大急ぎで、おばさん軍団に連絡を回しました。次々に返事が返ってきましたが、急なことでみんな都合がつかなくて、次の日のお葬式に参列できない状態だったので、連れだってお通夜にお伺いすることになりました。
たくさんの花で囲まれた祭壇に飾られた遺影は、元気でお綺麗な時期の満面の笑顔の写真でした。その下で、静かに横たわった先生のお顔は、長く辛い闘病から解放されて穏やかな優しい表情でした。少し、頬がこけてはおられましたが、お綺麗なままでした。
「私が元気になったら、今年の暮れの舞台で、たくさん写真を撮りましょうね」
この最後の約束は、とうとう果たされぬことになってしまいました。こらえていた涙が、みるみるあふれてきました。
後悔はいつだって先に立たない 取り返しのつかない私の失敗
涙がこぼれそうになって、先生のお顔から視線を外した時、何気なく目にした壁に、写真がたくさん飾ってあるのに気づきました。
その中で一番目についたのがバレエの舞台写真でした。花のワルツの衣装でしょうか?ピンクのチュチュをまとって、自信にあふれた綺麗な表情でした。
ほかには、子供のころのモノクロの写真。旅行先での写真。お子さんと一緒の写真。
見ていくうちに、私はその中の一枚に釘付けになりました。
私が写っていたのです。
いつの年末の舞台か、発表会の時か覚えていませんが、先生の楽屋を訪ねたとき、白いチュチュをまとった先生と一緒に撮った写真でした。まだ、自分が舞台に立つなんて考えもしない時期のものでした。いつ撮影したものなのか私は覚えていないのに、先生は大事に飾っておいてくれたのです。
「ななさんとの絆は切りたくないから…」
電話の先生の声が蘇ってきました。更に涙が吹き出してきました。
私はなんで、もっと早くガチにバレエに取り組まなかったのだろう…
周りが積極的でなかったから? 年をとっていたから? 太目だったから?
そんなの理由にならない!!。
バレエが好きなんだから、人の目なんか気にせず、人のいうことなんか気にせず、「私、舞台で踊りたいです」って言えばよかったんだ。
そうしたら、もっとたくさんのことを先生から教われたのに。もっともっと、先生と一緒に舞台に立てたのに…。
どっと後悔が押し寄せてきました。もう、取り返しがつかないことを思い知らされて、涙がとめどなくぼろぼろ零れ落ちました。
先生からの遺言「バレエ続けてね。約束ですよ」
こうして、私とR先生の12年のお付き合いは、先生の逝去によって幕を閉じました。
「バレエ続けてね。約束ですよ」
先生とメールを交わすと、必ず書かれていた一言でした。電話でも繰り返し、伝えられた一言でした。最後にお会いした時にも、そうおっしゃいました。
本当の意味では、最後に言われたものではありませんが、ずっと繰り返して伝えられたこの言葉は、先生から私への遺言だと思っています。
しかし、それがすべてではありませんでした。もう一つ、先生は私に、思いがけない大きな贈り物を残してくれていたのです。
それが解ったのは…
私がバレエウェアを作る理由 10 に続きます。
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